Norari-Kurari

脳腫瘍(膠芽腫)と診断された父と、私の徒然ブログ

家族が膠芽腫と診断されたときにまずやるべきこと

父の二周忌が近づいてきた。

 

 

このブログに未だにアクセスがあるということは、世の中でまさに今闘病生活を送っている人がいらっしゃるということの証なんだと思っている。

 

不治の病といわれるこの病気だが、家族のサポート次第で余命が変わる余地も多少あるのでは感じたため、今日はそのことについて筆を執りたい。

 

家族が膠芽腫と診断されたときにまずやること、それは「膠芽腫の研究が盛んな病院に患者を入れること」だ。

 

膠芽腫は進行が速い病気だ。刻一刻と腫瘍が大きくなるため、診断後すぐに手術を勧められることが多いかと思う。

この手術でいかにきれいに腫瘍を取り除くかが余命を左右するポイントとなる。

 

一般的に、膠芽腫の腫瘍をきれいにとりきることは非常に難しいといわれている。

膠芽腫の腫瘍は浸潤性(周囲の脳細胞に浸透している)があり、ぱっと見でどこまでが腫瘍か判断しにくいからだ。

加えて、脳という臓器には体をつかさどる沢山の機能があるため、安易に大きめに取り除くことも出来ない。

 

これらを踏まえて「無駄な脳細胞を取り除くことなく、しかし取り残しなく腫瘍を取り除く」ことはとても難しいということがお分かりいただけたと思う。

 

課題を解決すべく、いろいろな手術方法や技術も発達しているものの、そのレベルは病院によって大きく異なる、というのが実情のように思われる。

 

つまり、病院として膠芽腫の研究が盛んで、効果が見込まれる手術方法を導入していたり、手術の腕の良いお医者さんがいる病院の選択自体が余命をのばす第一関門なのである。

 

お住まいの地域から遠すぎない範囲で、膠芽腫の研究が盛んな病院を探して明日にでも受診しよう。

 

もし分からなければ、国立がんセンターでメール相談を受け付けているので相談してみるのもよいと思う。

私は父の一度目の手術が終わった段階でこのメールアドレスを見つけ、今の病院が信頼できるか、今度の治療はどうすべきかについて相談した。

 

↓↓国立がん研究センターHPより引用

メール相談

少しでも神経膠腫グリオーマ)の患者さんによりよい治療や情報を提供するために、メールによる相談を行っています。メールでの相談には、責任を持って答えるために、患者さんの名前・年齢・性別・代理人名・診断名・治療経過・治療を受けている病院・医師名・質問内容を書いていただくようお願いいたします。個人情報は相談の返答以外には用いません。またこちらから治療をうけている医師に問い合わせることもありませんのでご利用ください。

Eメール:gliomaml.res.ncc.go.jp

成田 善孝

毎日お忙しい仕事の合間を縫って成田先生が直接ご返信をくれるという本当に頭の下がる取り組みなので、ぜひ活用してほしい。

 

一人でも、長生きできる患者さんが増えますように。

合掌。

 

 

父が消え、一年がたった

父が死んだのは、一年前の蒸し暑い夏だった。

明日は一周忌で、ずっと家に置いてあった骨壺をついに納骨するのだ。

 

膠芽腫という病気はどのように進行し、どのように人を死に至らせるのか。

それに家族がどう向き合ったのか。

昔の私と同じように知りたい人がいるのではないか、そして何より書くことで私が私の感情を整理したい。

そう思って書いたブログであったが、世の中の大半のブログと同じようにきちんと書き残せず一年がたってしまった。

 

久しぶりにブログを開けてみると、思ったよりもこのブログを見に来てくれている人がいることに驚いた。

見に来てくれた人の何か役立てているのかは全く分からないが、

自己満足の範疇でまたブログを書いてみようかな、と思いこの記事を書いている。

 

 

一年が経ち、私たち遺族には一定の平穏がもたらされている。

父がいないことは「普通」になった。

日々悪化する父を見守る苦しみはもうない。

 

私はリビングに飾ってある骨壺と遺影と共に毎日食事をし、

たまに手を合わせ、食べ物を供える。

私は毎月給与明細をそっと備えるし

母は私よりも高頻度でお香を挙げている。

たまには父の知人が手を合わせに来たり

妹は心の中で手を合わせているのかもしれない。

 

私の家では父が単身赴任や出張で居ないことも多かったので、

父が家に居ないということにはあまり違和感がないというのが正直なところだ。

 

驚くべきは人の忘れる力だ。

一年前まで約二年ほどの、苦しい闘病生活の記憶は明らかに消え始めている。

というより、私の脳は自発的に消し始めている。

闘病生活を思い出すことは、ほとんどない。

あの苦しかった日々も今や遠い昔だ。

 

私は、父との闘病生活について、そして父について考えなくなった。

というのも、考えたら、思い出したら、すぐにでも泣いてしまうからだ。

このブログを書きながら、今も涙が頬を伝っている。

 

毎日、こんな感情に真正面から向き合い

涙で枕を濡らしては普通の社会生活は送れない。

 

先ほど一定の平穏、と言ったのは決して心の底からの平穏はもたらされていないからだ。

それでも表面上は今までと何ら変わらないように過ごすことが出来るようになっただけで十分だ。

考えるだけで涙が出るなんて、長く付き合った彼氏に振られた直後以外に経験がない。

自分でもどうして泣いてしまうのかわからないし、どうしたらこれが癒せるのかはよく分からない。

 

一年経って他に気づいたことは、

他人の死は多くの人にとってはイベントになりうるということだ。

死を悼んでくれた、その事実だけで充分感謝に値する。それ以上何も求めてはいない。

でも、父の死は私たちの中で一過性のイベントという訳にはいかないのだ。

今もそしてこれからもずっと続いていく、不可逆な事実だ。

 

簡単に言えば3.11と同じだ。

自分の本当に近くで起きたことでないから憐みの対象になり、

イベントとして消費してしまうというのは人間の性なのかもしれない。

もちろん一年たっても気にかけてくれる人も沢山いるので、他者の善意を信じられないと言っているわけではない。

でも、ピュアな白でもないということだ。

 

私は、いつになったら涙を流さず父について考え、父について話すことが出来るようになるのだろうか。

その長い長い戦いはまだ始まったばかりだ。

闘病家族の人に一番伝えたいこと

癌で闘病する家族にとって一番大事なことは何なのか、ふと書かなきゃいけないと思ったので筆をとろうと思う。

 

癌患者を看病する家族には、尋常じゃないストレスがかかる。

これは体験していない人にはわからないことだと思う。

具体的には以下のようなストレスだ。

 

・毎日変容していく家族を見続けなければならない苦しみ

・いつ再発するか分からないという、常に張り詰める緊張感

・検査のたびに押し寄せる緊張、検査結果による絶望

・自分の仕事や学業、プライベートなどとの折り合いでの葛藤

・何もかもに集中できないという精神的ないらだち

・変わってあげることができないという苦しみ

・当事者の気持ちを真に分かってあげられないという苦しみ

・いらだつ家族を見る悲しみ

・テーマが重いだけに、あまり他人に吐き出せないという苦しみ

挙げれば枚挙にいとまがないが、私は父の闘病をきっかけとして恋人とも別れた。

 

もうお分かりかもしれないが、闘病する家族にとって一番重要なこと、それはストレスとどう戦うかだ。

私たち家族は、がん患者のためにということを一番に考えがちだ。

でも、がん患者、特にうちの父が一番気にしていたのは家族の負担になることだった。

 

うちではこんなことがあった。

ある日もともと更年期障害気味でよく怒鳴っていた母だったが、

それを見かねた父が「そんなに怒るならもう俺は死んだ方がよい」といった。

それに対して当然母は激怒し、その場にあったぬか床のジップロックに包丁を突き刺した。

台所は見事茶色のぬか床が飛び散り、散々な状況になった。

 

信じられないかもしれないが、現実に起きたことなのだ。

 

そのほかにも、父は怒鳴る母を見て、よく「怖い」と涙を流していた。(脳腫瘍の進行により感情が出やすくなったようだ)

また、二度目の再発を経てもう命の先がないとわかったとき父が言ったのは、

「人生に悔いはない、ただ最後に家族に迷惑をかけてしまうことだけが気がかりだ」という言葉だった。

 

私の父は異常な気遣いマンだったので、すべての人に当てはまるとは言わない。

ただ、家族が頑張りすぎて疲弊してしまうこと、これは患者にとってもとても悲しいことなのではなかろうか。

 

今看病をがんばっている家族の方には、

大変なときは外部の力をかりたり、息抜きをして、どうか自分自身の調子を整えることこそ一番の看病だと言いたい。

言われてもきっとできないだろう、それでもあえて「自分を大事にして」と言いたい。

 

具体的には、患者と物理的距離を置き、リフレッシュする時間を確保してほしい。

ちょっとくらい看護師さんに任せたって、大丈夫。

自分が楽しんじゃいけないなんて思う必要はない、あなたが楽しければ大事な家族が嬉しくないはずがない。

 

私が、私の家族が、もっと健康な精神状態で居られたなら、

父を心配させずに、もっと幸せに逝かせてやることができたのではないか。

これだけが、私の、唯一の後悔なのである。

 

ユリの花に埋もれて、父は骨になった

約一カ月ほど前、父が亡くなった。

父が亡くなっていくプロセスを、きちんと残して他の闘病している人の安心材料少しでもなればいい、

また私自身もどんどん抜け落ちていくであろう父の記憶を留めておきたい。そう思っていた。

 

でも、なかなか筆が進まなかった。

亡くなる直前は毎日精神が休まらず、亡くなってからは葬儀の準備で目まぐるしく過ぎていった。

葬儀が終わってからは早く自分の日常を取り戻さなければという思いと、父の死に悲しんではいけないという思いから自分の勉強をしたり、父の葬儀をきっかけに再開した友達たちと会ったりしていた。

 

1か月たって泣くことも、悲しむことも少しずつ減ってきた。でも、テレビで病気のシーンを見たり、父の生前のメッセージや写真を見ると今でも時折涙がこみ上げてくる。

 

会いたい。会いたいなあ。

 

人が死ぬとき、どういう風に死んでいくのか。

この膠芽腫という病気はどのように人の命を終わらせていくのか。

私も父が余命宣告を受けたときにはインターネットで他人のブログを読み漁った者だった。

 

もうすぐ四十九日。

父が父から単なる物質、そしてただの概念になってしまったプロセスをきちんとこのブログに書き起こしたい。

他者の心に寄り添えるなんて、幻想だ

おととい、父の病態が悪化した。

39度の熱が出て、呼吸も時たま止まり、意識レベルも低下した。

お医者さんは、「熱が下がったとしても意識レベルが戻ることはないだろう。あと数日か長くて一週間でしょう。覚悟してください。」といった。

 

私は、この日バイトに行っていて

たまたまこの日はバイトが夜遅くて

たまたまこの日は翌日のテストのために家庭教師が長引いていて

たまたま、たまたま。

 

帰りの電車でLINEにへばりつき、

「早く帰ってきた方がいい」のライン文字に涙をにじませていた。

最寄り駅についたとたん走って走って、

やっと家に着いたとき、父は静かに眠っていた。

 

呼吸がところどころ止まる。

「パパ、呼吸してよ」赤ちゃんみたいな、情けない涙交じりの声でつぶやいた。

本当に死んでしまうんだ。

そう思い、取り寄せていた葬儀社のパンフレットを眺める。

 

まだ父は、生きている。でももうすぐ死ぬ。

そんな中で葬儀のパンフレットを眺め、訃報の連絡先を整理する。

「こんな日が本当に来るなんてねえ。」母が鼻を赤くしてつぶやく。

時折、父のせき込む声と痰を出そうとしているのか、うなる声が聞こえる。

 

ひと時も父の傍を離れることは出来ないため、

父の部屋にマットを持ち込み、数時間眠った。

 

翌日、父の具合は少し良くなった。

意識レベルが回復し、少し会話ができるようになった。

もう死ぬ、と思っていた私たちにとって奇跡だった。

しかし、いつ悪化するともわからない。

私は授業を休んだ。

 

嬉しい。パパと一緒に生きれる時間が思ったより伸びた。

とてもうれしい。嬉しいに決まってる。

でも。ふと思ってしまった。

…これはいつまで続くんだろう。

 

もうすぐ死ぬかもしれない、死なないかもしれない。

終わりの見えない、暗闇だ。

でも終わってほしくない、暗闇だ。

いつ終わるんだろうなんて考えてしまう自分にも嫌気がさす。

 

久しぶりだった。

私のメンタルが、悲鳴を上げていた。

誰かに、誰かに助けてほしかった。

 

私は、友人二人にラインをした。

父の病気の話を知っていて、私を受け入れてくれた友人だ。

父が死にそうだなんて言えない、けれどこの二人なら、

詳しいことは聞かずに頑張ったねって言ってくれると思っていた。

 

そんな甘い現実はなかった。

「人に褒められても意味なくない?」

「頑張りすぎ、体休めて」

 

彼らは、私を救えなかった。

当たり前だ。

私が父の死に目に遭遇してるとは二人は分からないのだから。

でも、とても信頼していた二人だった。

自分勝手なのはわかっている、でも、少しショックだった。

 

そんな中、同じ病気で父親を数か月前に亡くした友達から、連絡がきた。

「大丈夫?困ったことない?」

天使だと思った。

いや、天使だった。

 

どんなに仲が良くても、信頼していても、

同じ経験をしていないものが本当の意味で「寄り添う」ことは難しいのだと知った。

同時にこれは、わたしも、他者の心に寄り添えないんだというある種絶望を突き付けられたことになる。

 

他者の心には寄り添えない。

でも、やっぱり寄り添う努力をしていきたいと私は思うのだった。

死にゆく父の「今、ここ」

今ここに集中する、マインドフルネスが流行っているのをご存じだろうか。

要は頭を一時的に空っぽにして「今ここ」に集中することで、結果的に集中力を高めたり脳を休めたり、精神衛生を保とうという話だ(雑)

詳しくはマインドフルネスの書籍がたくさん出てるので読んでほしい。

 

父の容体が土曜から急悪化した。

一か月前から脳幹に腫瘍が転移し、あと三か月程度とは言われていたものの、ここ数日の悪化はすさまじかった。

どれくらい悪化したのかと言えば、目があんまり開かなくなった、言葉をあまり返さなくなった、声がおかしくなった、記憶がぐちゃぐちゃになり始めたなど上げたらきりがない。

自分の年齢もわからないし、言葉がたまに出てこないし、祖父と祖母が亡くなったことも忘れているし、自分がどこにいるのかもたまによく分かってない発言をする。

 

日々退化する父を眺めて、もう私たち家族は毎日毎日に感謝することしかできなくなった。

もう「元気だったころの父に戻ってほしい」という期待は持たない。いや、持てない。

何故なら、それを願っても無理なフェーズに入ったことを実感として素人でも認めざるを得ないからだ。

 

ふと、いろんな後悔が頭をよぎる。

ああ、あの時ほかの用事なんてキャンセルして一緒に映画に行けばよかった。

ああ、あの時の彼氏と上手くやっていればパパに結婚の報告ができたかもしれなかった。

タラレバの世界だ。涙が止まらない。

 

私は、しかし意図的に、「こうすればよかった」と考えるのをやめた。

何故なら、そんなことを考え始めたらきりがないし自分が破滅しそうだからだ。

なんとも当たり前で、本屋に我が物顔で並んでいる自己啓発書にでもかいてあるようなチープなアクションだ。ここにブログとして書くまでもない話で私も驚く。

でも、日々弱る家族を目の前に、後悔にかられない人間などいないのだと思う。

メンタルの防衛本能なのかよく分からないが、

とにかく「これを続けたら精神崩壊する」と感じ、強制的にわたしの後悔スイッチはオフになった。

 

幸い私はいろいろあって今まだ学生で、時間がたくさんある。

ここ数日毎日父の病室へ行き、会話をし、父に触れている。

とても幸せだし、温かく、父への愛情で心が満たされている。

父をこんなに愛したのは、皮肉にも初めてかもしれない。

 

今まで、父にしてあげたらよかったことは沢山ある。

これから、もう父と出来ないことは沢山ある。

でも、どれもこれもどうしようもないことだ。

何もできなくなって初めて、受け入れるしかなくなって初めて、

私たちは本当に父に向き合えた。

 

思えば、「元気なころの父」は父の一側面でしかなく、「病気である今の父」も父なのだ。

人は変化するし、自分の期待する像と外れている相手を相手と受け入れないことはなんて傲慢なのだろうか。

 

一個前の自分の記事と相反するようだが、

父をありのままに受け入れ、今を生きること。

これが、私たちに残された、あと少しの、一番ベストな生き方だ。

ゆでガエル

ゆでガエル理論とは、ゆっくり起こる環境変化に対する対応の重要性、難しさを示すたとえ話だ。

熱いお湯に突然入れられればカエルは驚いてすぐに飛び出すのに、徐々に温度が上がる水の中ではカエルは跳びだすことなくゆでガエルと化してしまう。

 

今の父は、もうどうしようもなく、客観的に見ればかなり厳しい状態だ。

まず、左半身はマヒしており自力で動かすことができない。もちろん歩くことなんかできないし、何をするにも車いす、トイレもひとりで行けない。立ち上がることすら一人でできない。

日中はすぐ眠くなり、よく寝ている。

最近起きたことの記憶はすぐ忘れる。当日の記憶すらままならない。

声が出ない。常にかすれ声。

感情のコントロールができず、母が不機嫌だとすぐ泣く。

長時間人と話すと、痙攣をおこす。

 

もっとこれ以上にも父が失ったもの、父が代わってしまったことがあるはずだが、それすらもう私は書くことができない。

ゆでガエルだ。

 

このおかしな状態の父に、慣れてしまった。

変わっていく父を、人生をクロージングしていく父を、受け入れてしまった。

あきらめ、悟りの境地だ。

 

どんなに変わろうとも父は私の雄一の父で、心から愛している。

それは当たり前のことだ。

でも、変わってしまった父を見て、終わりゆく父を見て、悲しい、怖い、驚く、といった感情がなくなってしまった自分に驚いている。

 

おととしの10月は、父の死を突然宣告され、ただただ動揺し、眠りも浅く、毎日ふと涙を流していた。

今でも、たまに涙は流すけれどもどうしてか、悲しい、怖いという気持ちが薄れてきているのを感じる。

 

人のメンタルは上手にできている。

これが適応なのだろう。

 

私は中学生の時仲間外れにされたことがある。

学校で一人で過ごしていたのだが、ある日私は母にこんなことを言った。

「最近は、慣れてきたよ。」

母は激怒した。

「そんなことに慣れるんじゃない」

 

私はまさに今、自分に言いたいのだ。

こんなことに慣れちゃいけない。

父は運動ができて賢くて仕事もできて、気遣いをしすぎる、周りを冗談で笑わすよううな、私のスーパーマンなのだ。

こんな状態の父を受け入れ、慣れてはいけない。慣れたくない。

 

私は、早く気づかなきゃいけない。

時間が短くなっていることを。

父とたくさんやるべきことがあるということを。

父は明らかに、もうすぐ、ゆであがる。