ユリの花に埋もれて、父は骨になった
約一カ月ほど前、父が亡くなった。
父が亡くなっていくプロセスを、きちんと残して他の闘病している人の安心材料少しでもなればいい、
また私自身もどんどん抜け落ちていくであろう父の記憶を留めておきたい。そう思っていた。
でも、なかなか筆が進まなかった。
亡くなる直前は毎日精神が休まらず、亡くなってからは葬儀の準備で目まぐるしく過ぎていった。
葬儀が終わってからは早く自分の日常を取り戻さなければという思いと、父の死に悲しんではいけないという思いから自分の勉強をしたり、父の葬儀をきっかけに再開した友達たちと会ったりしていた。
1か月たって泣くことも、悲しむことも少しずつ減ってきた。でも、テレビで病気のシーンを見たり、父の生前のメッセージや写真を見ると今でも時折涙がこみ上げてくる。
会いたい。会いたいなあ。
人が死ぬとき、どういう風に死んでいくのか。
この膠芽腫という病気はどのように人の命を終わらせていくのか。
私も父が余命宣告を受けたときにはインターネットで他人のブログを読み漁った者だった。
もうすぐ四十九日。
父が父から単なる物質、そしてただの概念になってしまったプロセスをきちんとこのブログに書き起こしたい。