消えた餃子
父がそろそろ死ぬかもしれない。
そう思い、父の発症から死ぬまでをつづろうと思って始めたこのブログだが、今日はひとまず昨日起きたこと書こうと思う。
父は、昔から餃子が好きだ。
母の焼く餃子はおいしいおいしいと言って食べるし、ラーメン屋では必ず餃子を頼むし、餃子の王将の素晴らしさを興味のない娘たちに熱心に説くくらいには餃子が好きだ。
おそらく、グルメなのではない。餃子ならどんなものでも好きで、ただただ餃子という料理を愛している。
話は変わるが、複数人で食事をするとやってくるあの気まずい瞬間を経験したことがあるだろうか。
共用の大皿で最後の一つが皿に残っている、あの瞬間だ。
それまでひっきりなしに動いていた皆の箸は動きを止め、目線だけが皿の上とみんなの顔をちらちらと行き来する。
家族の場合、実際たいして気まずい空気にはならないが、うちでは食べていいか声がけをしたり周囲の様子をちょっと見たりくらいはしている。
そんな時、父は例外なくいつも同じセリフを口にする。
「きゅり子ちゃん、食べていいよ。」
最後の一つにならないまでも、父はよく「パパの分まで食べていいよ」と皿に自分の分を分けてくれた。
食いしん坊の私に、お腹一杯まで食べさせてくれた。
それが、父の愛だった。
私はおいしいものに目がないが、自分も子供ができたらきっと自分より優先して食べさせてやりたくなるんだろう、それが親の愛というものだ、なんて子供ながらに考えたりもした。
その父が、今日は私の餃子を4つも食べた。
私がラーメンと一緒に頼んだ6つ入り餃子のうち、4つを食べた。
食い意地の話をしているのではない。
私は餃子を2つ食べたし、十分満足している。そんな話じゃないのだ。
父が私の餃子に気づいたのは、ちょうど2個ほど食べ終えたときだった。
父は「餃子がある。」と嬉しそうにつぶやいた。
もともと父に分けるつもりで頼んだようなものだ。
私は、お皿を父との間に移し、どうぞと声をかけた。
皿の上の餃子はあと4つだ。
父は、餃子に手を付けた。
1つ食べた。2つ食べた。3つ食べた。
いつもと何かが違う。
いやな予感が脳裏をよぎる。
皿の上の最後の一つの餃子を見つめながら、私は祈った。
どうか。どうか私に食べていい?と一言聞いてくれ。
どうか。どうか私に気を使って箸をつけないでくれ。
それが、私の知っている父の愛なのだ。
これまで20年以上ずっと注がれてきた、父の愛だったはずだ。
残念ながら、父は無言で最後の一つを口に運んだ。
私の負けだった。
私の知っている父の愛は、そこにはもうなかった。
父は毎日、少しずつむしばまれている。
これ以上手の打ちようはなく、私たちは来るXデーに向けて受け身でいることしかできない。
徐々に、しかし着実にに変わっていく父をこれからももっと見ることになる。
なるべく、沢山の餃子を父に食べさせてあげよう。
「パパ、食べていいよ。」
私は静かにつぶやいたのだった。